神話の誕生――明治初期における内戦と犠牲(日本語訳)
桐原 健真 (金城学院大学 教授)
1.「Sacrifice」と「犠牲」
日本語では、英単語の “sacrifice” はおおむね「犠牲」という古典漢語で表現する。これらのことばは、まことによく適合している。なぜならば、「犠」は、「牛+羊(もっとも一般的な供物)+我(供物を殺すためのギザ刃の矛)」で構成されており、また、「牛+生」から構成される「牲」は、神に捧げる生きた牛を意味するからである。「犠牲」は、「sacrifice」を翻訳するためにあることばだと言ってよい。
しかしながら、最近の日本語では、「犠牲」は「sacrifice」だけではなく「victim」も意味する。こうした原義とは異なった用法は、19世紀末に現れた。たとえば、義和団の凶刃によって命を落としたドイツ公使の死を悼むために中国皇帝がドイツ皇帝へ親電を送ったことを、ある日本の新聞が報じた際、その記事は、「victim」に「犠牲」を用いている[1]。
この「犠牲」が神々に献げるためのいかなる供物でもないことは、明らかである。このように、現代日本語におけるその第一義は、偉大なる何者かへの「神聖な供物」という原義とは異なって、罪無き者の「不幸な死」なのである。
2.近代化された「犠牲」の誕生
「犠牲」の意味が本質的に変化した一つの理由は、近代日本における「犠牲」の氾濫のせいである。それはまさに「量から質への転化」と言うべきものであった。すなわち近代日本は、以下のように、繰り返し内戦と外征を繰り返している。曰く、佐幕軍と新政府軍とのあいだによる戊辰戦争(1868~1869)、最大にして最後の士族反乱である西南戦争(1877)、そして日清戦争(1894~1895)に結果した数次にわたる台湾や朝鮮での中国との武力衝突。これらの戦争は、日本がそれまでの二世紀において経験したことのないほどの死傷者を生んだ。そして戦死者たちは、みずからの命をその国家に供した勇士として取り扱われ、彼らの魂は、明治国家(1868~1945)によって、東京招魂社(今日の靖国神社)の「神」[2]として合祀された。彼らは、文字通り国家のための「犠牲」あるいは「sacrifice」であった。
しかしながら明治国家は、実際には、この大日本帝国の守護神についての確固たる宗教的教義を有していなかった。政治家だけではなく、神官たちもまたこの神がいかに存在し、またいかなる力を有しているかということについてしっかりしたイメージがなかった。しかのみならず、明治国家の樹立に著しく貢献した日本知識人の多くは、宗教に対して懐疑的、あるいは強固な無神論者であった。このような傾向は、神官たちの間にもみられた。たとえば、1862年に、勤王の志士の魂を祀るための神社(現在の京都霊山護国神社)をはじめて設けた神官の福羽美静(1831~1907)には、次のようなエピソードがある。
明治天皇が、京都を離れて東京に行こうとした1868年、皇族・貴族、そして京都市民たちは、ほとんどがこの計画に反対した。しかし福羽は強く支持を表明していた。なぜならば、彼は、新国家建設のためには、天皇がこの古都を離れなければならないと考えていたからである。ある晩のこと、彼は神祇官を通して、伊勢神宮(天照大神つまり皇室の祖先神を祀っている)からの一通の書簡を受け取った。そこには、次のように記されていた。「内宮前にある鳥居の笠木が落下しました。陛下の出立直前にこのことが起きましたので、わたくし〔伊勢神宮の神官〕は、これは何かの兆しではないかと信じるものでございます」と。これは反対派の抵抗であると福羽は考えたので、彼はこの書簡を黙殺し、そして、次のように言った。「そもそも、鳥居の笠木が落ちることを恐れる必要はない。これは単なる偶然である」と[3]。彼が恐れていたのは、この計画を実行したことによりアマテラスの不興を招くことではなく、中止することによる人心の混乱であった。彼はまさに政治家であった。
このような、政治的に思考し、行動する神官たちによって、国家神道は基礎付けられた。そしてこの国家神道は、宗教さえも日本人民を支配するための手段とみなしていた明治国家における重要な柱の一つであった。結局のところ、招魂社で顕彰されたのは、国のために死ぬという行為であって、個人としての人間ではない。したがって、それは慰霊や魂の救済ではなかったのである。
明治国家が、宗教よりは政治的な意識のもとに、国家神道を打ち立てたがゆえに、近代日本における社会全般に、宗教的無関心の傾向が現れた。かくて一般的なことばとしての「犠牲」は、本来の意味を失い、誰の罪にも帰することのできない不幸な死という新たな意味を与えられたのである[4]。だが、近代日本において、「sacrifice」としての「犠牲」が消え去ったわけではない。そこには、共同体を維持するための目に見えぬ数多くの「scapegoats」が存在したのである。
3.真の「Sacrifices」
非常に当たり前のことだが、敵対者がいなければ戦争は存在しない。したがって敵国にも戦死者は存在したのだが、近代日本の国家神道は、これらの魂を祀ることはなかった。これは、日本の歴史において極めて例外的な現象であった。日本人は戦争が終わると双方の魂を祀ってきた。なぜならば、彼らは古えより、これら祀られた魂が、災いではなく、福をもたらしてくれるであろうと信じていたからである。
たとえば、1191年に後鳥羽天皇は、源平合戦(1180~1185)[5]によって滅亡した平氏の霊を弔うために寺院[6]を建立している。こうした行為は、国内戦争のあとだけではなく、対外戦争のあとにもみることができる。実際に、13世紀後半に日本を二度にわたって攻撃したモンゴル軍の戦死者のために、寺[7]が建てられているのである。
だが、徳川幕府の滅亡をもたらした戊辰戦争ののちに祀られた人々は戦勝軍の戦死者だけで、敗軍の兵士たちの魂は、明治国家によって無視されたのである。戦後数十年を経て、隠れていたこれらの魂のために、いくつかの慰霊碑が、縁者の手で、古戦場の周辺に立てられたが、これらの碑は、まったく招魂社とは異なるものであり、結局は日陰者とならざるを得なかった。
明治国家は、見せしめのために敵対者の魂を排除することで、日本人民にその命を天皇に捧げることを奨励した。「無意味な死」という烙印を押されたこれらの魂は、見えざるところで、あるいは文字通り地下から、明治国家を打ち立て、維持することに貢献したと言えよう。まさにこの点で、彼らはまごうことなきスケープゴートとしての「犠牲」であった。魂に対するこうした選別と排除を通して、明治国家は近代天皇制イデオロギーというあらたな神話を紡いでいったのである。
4.おわりに
2016年5月、広島で演説したバラク・オバマ米国大統領の演説に、次のような一文がある。
国家は、犠牲と協力のもとに国民を結束させる話をしながら勃興し、注目に値する功績を成し遂げることもあるが、これらはしばしば、自分たちと異なる人々に対する抑圧や人間性を奪うものとしても使われる。[8]
戦死者を「sacrifice」として取り扱う国々や集団は、いまなお存在する。しかしながら、ネイションと呼ばれる神へと本当に献げられる真の「sacrifice」は、「異なる」という理由で「抑圧や人間性を奪われた」ものたちにほかならない。国民国家は、こうした可視または不可視の「sacrifice」によって叙述された神話によって基礎付けられているのである。
[1] 「陛下の公使が突然清国に勃起し、朕が官寮〔ママ〕の鎮圧する能はざりし暴動の犠牲となりしは、朕の深く哀悼に禁へざる所なり」(「独帝清帝の親電応酬」『朝日新聞』1900年10月24日東京朝刊、2頁)
[2] 神が単数形である理由は、すべての戦死者の魂は、個人としてではなく、一箇の神のうちに祀られるからである。したがって、彼らの個々の魂は、国家の守護神の一部であり、また彼らの個人としての個性は完全に失われるのである。
[3] 福羽美静「御東幸の反対論」、『奠都三十年:明治三十年史・明治卅年間国勢一覧』博文館、1898年(『太陽』4巻9号、臨時増刊)
[4] もとより、戦争は政府によって始められる。とりわけ『大日本帝国憲法』(1889)は、その第13条に次のように規定している。曰く、「天皇は戦を宣し、和を講じ、及び諸般の条約を締結す」と。しかしながら、明治国家において、政府や天皇の責任を追及することは、日本の市民には困難なことであった。
[5] 平氏と源氏とのあいだの戦争。こののち、源頼朝が、鎌倉幕府を開いた。
[6] これは、阿弥陀寺(山口県下関市)と呼ばれ、ラフカディオ・ハーンの『怪談』に収められた「耳無し法一」の舞台として知られている。この寺は、「神仏分離令」(1868)のために破却され、明治国家は同じ場所に赤間神宮と呼ばれる新しい神社を設けた。
[7] これが円覚寺(神奈川県鎌倉市)である。ここは、日本における禅仏教の近代化運動の一つの中心地であった。たとえば、釈宗演(1859~1919)は、布教のために米国へ赴き、その弟子である鈴木大拙(1870~1966)は、禅仏教を始めとする日本文化を海外に紹介するための多くの著作を英語で著した。
[8] 「広島訪問 オバマ大統領の声明全文」『読売新聞』2016年05月28日東京朝刊、14頁。ちなみに、この演説の同紙による日本語版には、「犠牲」が6回出ているが、米国大統領は「sacrifice」という語を1回しか使っていなかった。このことは、「犠牲」の多義性をよく示している。